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マジョリティ・ルールを尊重すると、悪質性の高いものだけが取締りのターゲットになるので、enforcement(法の執行)が悪質性の高いものに限定される。
その結果、警察力は合理的に配分される。
マジョリティ・ルールを尊重する欧米に対し、ニッポンの道路には大きな網がかけられている。
極端に低い規制速度、欧米の半分以下の酒気帯び基準、そしてすべて駐車禁止の市街道路 ―― etc.
大きな網は、法執行のターゲットが大きくなり、悪質性や迷惑性の低い交通違反に対しても、警察力を行使することができるようになる。そして、何をターゲットとするかを選択する権利が生まれる。
つまり警察力の配分において、警察の裁量が拡大するわけだ。
警察が法を執行すべきは、道路交通法違反だけではない。ところが、事件として検察に送致する数においても、警察費の使い道においても、交通関連はダントツだ。
事故が多発している!――― これが口実で、それを裏付けるのが統計だ。ただし統計をとるのも警察で、その手法には問題がある。
悪質な常習者ほど、どうしたら捕まらないかを熟知している。だから悪質なケースを捕まえるのは手間がかかるものだ。
一方、検挙件数で管理すれば、楽して検挙できる悪質性の低い違反者を捕まえることに対し、執行部隊のモチベーションが向けられるのは当然だろう。
―― 交通違反は犯罪だ! ――
警察は勇ましくアピールしているが、この広報は問題だ。
まず、イギリス・アメリカ・カナダなどでは、駐車違反などのdriving violation(交通違反)は、犯罪とは別扱いだ。
フランスでは、crimes(犯罪), misdemeanors(軽犯罪), violations(違反)の3つが刑法上に区別されている。
道路交通法違反に対するペナルティは、特別法違反にもとづく行政刑罰に過ぎない。 刑罰として刑法に定められていうのは、業務上過失致死傷罪と危険運転致死傷罪くらいだ
日本の反則金制度と放置違反金制度だって、こうした欧米の流れをくんでいる。
行政の実効性を確保するために欧米的な非犯罪化を取り入れながら、犯罪性を強調するのは矛盾している。
なお反則金制度も放置違反禁制度も、刑事罰のかわりに行政罰を受けることを違反者が自ら望んで選択したという論理で制度が組み立てられている。
この論理は、検察や裁判所が警察の暴走を止める救済手段として有効に機能していて、かつ誰もが裁判を利用できるという前提になっている。
しかし、日本の裁判制度にはさまざまな問題があり、誰もが容易に利用できるものではない。
ここはまず、大きな網の妥当性が問われるべきだろう。
―― 悪質な運転はゆるさない ――
―― 人身事故が増加している! ――
こうしたセンセーショナルな警察広報は、もともと情緒的なニッポン人の不安をアオり、「厳罰化やむなし」の風潮を形成する原動力となっている。道路交通の現実を知らない非運転者は、警察広報を素直に消化してしまうのだろう。テレビ局も警察広報を支援している。
運転をしない人たち(非運転者)の不安は、クルマへの敵意へとかたちを変えている。悲惨な事故の報道によって引き起こされる「かわいそう」という情緒は、容易に〝加害者への敵意〟に変換されてしまうからだ。
一方、警察の取り締まりがなければ悪質な違反をくりかえし、次々に事故を起こすかのように広報され、さらに大きな網によってカモにされる運転者はたまらない。
こうして運転者と非運転者が警察に向ける意識は大きく開き、それが交通安全に対する温度差となり、そうして対立するようになっていったのだろう。
つまり警察は、非運転者たちを〝交通安全〟に取り込み、そして非運転者を運転者に敵対させたのである。
そうすることによって大きな網をつかっての厳しい取り締まりを正当化し、運転者(ドライバーやライダー)の不満を封殺したのだといえる。
ところで「もっと厳しく!」と警察の取り締まりを支持する人たちは、はたして警察を信頼しているのだろうか。
人は自分のしないことをする他人を安易に否定するものだ。同様に自分とは違うタイプの人間をなかなか認めようとしない。
人種差・肌色差・年齢差・そして趣味嗜好差 ―― etc.
非運転者がクルマを嫌う根本的な理由は、こうした排他性に根源があるのではないだろうか。いい替えれば、警察は、嫌なモノを遠ざけたいという非運転者の醜い
―― 悪質な運転はゆるさない ――
こうした警察広報に呼応するかのように、非運転者たちは嫌なモノを排除してもらおうと声をあげる。 ―― もっと厳しく!――
しかしながら、ただ異物を排除しようとして、成功したケースは歴史に存在しない。
―― イラクに民主主義をもたらすために正義を遂行する――
世界の警察官を自称するアメリカは、こういって湾岸戦争をはじめた。ところが大量破壊兵器はみつからず、その一方で石油利権のための戦争だったのでは?と指摘されている。
日本の警察が、クルマを大量破壊兵器扱いしているとまではいえない。しかし、道路社会に大量の警察力を投下することによって、警察一家はさまざまな利権を手にしている。
大きな網をかけたがるのは警察だけではない。これがお役所のビジネスモデルを可能にするからだ。
それぞれの省庁は所管する分野において、さまざまな規制をかけている。また公共事業を扱う省庁は、しっかりと財布のひもを握っている。
このような〝お家主義〟の中央省庁のそれぞれが、所管する分野において規制権を濫用することによって、ニッポンは規制大国・天下り天国となったといえる。
建設一家や運輸一家と比べた警察一家の特徴は ――
中央コントロールセンターとなる警察庁に、国土交通大臣や防衛庁長官のような閣僚はおらず、お役人がトップ(警察庁長官)にすわる。さらに、緊急事態をのぞけば、内閣総理大臣でさえ警察庁を指揮することはできない。
都道府県警察はというと、警察庁からのキャリア官僚が送り込まれ、たたき上げの警官も警視正以上になると国家公務員となる。その一方、都道府県知事に警察を指揮する権限はない。このように、地方の影響力を廃し、上層部に中央集権体制を取り込んだ都道府県警察では、ほとんど全国一律の警察業務がおこなわれてる。
地方分権の皮をかぶりながら中央集権的な警察業務を可能にし、それが大きな網をつかって法を執行(enforcement)するのだからおそろしい。
成熟した交通社会では、
モラルが尊重され、法に権威があり、そして道路の秩序が安定する。
その結果として交通事故が少なくなる。
いまの日本の交通社会では、
交通事故が警察の存在意義をアピールするネタとされ、
大きな網の中では警察官が法を振りかざしている。
そうして法の権威とドライバーのモラルが失われているようだ。