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最悪の循環

 事故が減っても規制強化を続けたために、ニッポンは世界で最も交通規制が厳しい国になりました。にもかかわらず「運転モラルが悪い」という声はどんどん高まっているようだ。きっと安易な規制強化が運転モラルを悪化させたのだろう。しかし目立つのは、「運転モラルが悪いから、もっと厳しく!」といった他力本願ならぬ警察本願的な意見である。

 ところで、ニッポンの道路交通行政には、そのすべてに警察が関与しています。 警察が免許を所管し警察がルールを作り警察が取り締まる。 そして、警察が裁く(クロにする)という世界に稀(まれ)なシステムだ。

警察は「事故多発!」をアピールする
 
 「規制の強化を!」という世論が起こる
 
 警察は規制強化を行う
 
 息苦しさを感じる人々は発散場所を探す
(ここがダメならあっち。これがダメならそれ)
 
 また「規制強化を!」という世論が起こる
 
 警察はさらなる規制強化を行う
 
 息苦しさを感じる人々は別の発散場所を探す
(あっちもダメならそっち。それもダメならあれ)

いまのニッポンは、この繰り返しではないでしょうか?

交通違反は犯罪なのか?

 ニッポンの警察は、「交通違反は犯罪です」といった広報をしています。 なお、“犯罪”とは、その行為がどれだけ他人に迷惑をかけているか?が問題ではなく、 その行為そのものが、法によって処罰に値する行為を示している。こうしてニッポンのドライバーは、 交通違反をしたら「犯罪を犯した」との認識を持たされるようになったのだろう。 そして、誰にも守れない速度規制がドライバー全員を犯罪者にします。 犯罪なのだから、どれだけ迷惑をかけているか?は関係ありません。そうしてドライバーは、次のように言動があたり前になるのだろう。

通 行 人 「キミキミ、ここは人の迷惑になるから…」
ドライバー 「迷惑なんか関係ねェんだよ!」

ブラウン管の中の犯罪

 どれだけ迷惑をかけているか?に関係なく日常的に“犯罪”を行うドライバーは、 毎日のように次のようなニュースを目にします。疑惑を受けた有力者が徹底してシラを切り通す様子や、権力者の疑惑や犯罪への甘い処分などなど。 こうした特権を持つ人々のニュースは、ドライバーに「バレなきゃOK」という手管を根付かせる。

被 害 者 「なんで赤なのに止まらないの?」
ドライバー 「信号は青だったよ。赤だって証拠あんのかよ?」

 次のようなニュースもひんぱんに報道されます。警察官の疑惑や犯罪の甘い処分などなど。 こうした警察の身内への甘い処分は、ドライバーに 「警察官がシロといえばシロ」という現実をみせてしまうのである。

通 行 人 「キミキミ、ここは駐車禁止だから…」
ドライバー 「てめェはおまわりか!?」

 このようにして警察官でなければ手のつけられない迷惑行為が増殖していったに違いない。

悪循環はさらに続く


「規制強化を!」に応えて、警察はさらに法の網を広げる

警察が規制を強めるほど、ドライバーのストレス発散方法は巧妙になる

「規制強化を!」を叫んだ人々からは
「警察は手ぬるい」「犯罪者は殺せ!」といった意見が溢れ出す

警察は武器の使用さえもいとわなくなる。(2001年12月)

警察が武器や権威をチラつかせるほど、
警察のいる場所といない場所での秩序が開いていく

警察に頼らなければどうしようもなくなる
(一般人ではまったく対応不能になる)

警察の前にだけ取り繕われた秩序ができる
(警察のいない場所は無法地帯と化す)

この傾向は、既にはっきりと見えている。


「声」は霞ヶ関まで届かない

 一般道路の法定速度時速60kmを代表として、警察が制定・指定・運営する例規・規制・取締り方針は、各地域の道路事情や交通状況、そして生活習慣によっては不条理なものになっている。そして毎年春と秋に全国一斉の“交通取締り運動”が行われるように、これら警察権限で実施される交通施策は全国一律だ。

  一方、国も地方も行政の窓口は「開かれている」とはお世辞にも言えない。警察にいたっては「閉鎖されている」としか言いようがないのである。

  とはいえ、ドライバーが自身の意見を「行政に反映させたい」と望むのはとても自然なことである。しかし天下りを死守したい中央省庁や、再選のための票田を維持したい政治家が(意見)を聞いてくれるだろうか? 国や中央省庁よりも、都道府県の方が末端のをひろってくれる可能性の方がはるかに高いことは誰にでも分かるはずだ。一国民が国に意見を反映させるよりも、一都道府県民が都道府県に意見を反映させることのほうが何十倍も容易なのである。

  同様、警察庁に意見を反映させるよりも、都道府県警察に意見を反映させる方がはるかに楽なのだ。現に警察がかたくなに拒否し続けた警察の情報公開は、変革されやすい都道府県が先行したのである。それに、そもそも都道府県警察は、各都道府県の予算で運営される(基本的には)独立した意思決定のできる組織だ。ましてや、本来の都道府県警察の存在意義は、都道府県民の利益を守ることにあったはずなのだ。

予想される警察変革のシナリオ

  1. 情報公開条例によって、都道府県民が「自分たちの警察」に興味を持つようになる。
  2. 都道府県警察が都道府県民の評価を意識した施策を行わざるを得ない状況が発生する。
  3. 都道府県警察が(警察庁の指示に習った)警察全体の権威維持最優先策から脱却して、『地域のための開かれた警察』に変革していく。
  4. 警察内部からも「自分たちの組織を何とかしよう」とする動きが起きてくる。

 他の中央省庁のお役人たちが変わろうとしないのと同様に、警察庁のお役人も決して変わらないはずだ。つまり、都道府県警察間に競争原理が働くことが、「民主的な警察」が実現する最も可能性の高いシナリオなのである。

もうひとつのシナリオ

 前述の“悪循環”が続いた結果、治安の悪化は取り返しのつかないレベルに達していた。おかげで警察の活躍する舞台は広がった。その反面、社会のオモテ/ウラは激しく開き、警官のいない場所は無法地帯と化していた。そしてさらに治安が悪くなれるほど、警察への期待はますます高まり、警察が活躍する舞台も一層広がっていった。

 一方、20世紀のうちに巨大なマシーンと化した行政は、改革によってバラバラに分離されても、いつのまにか元通りの利権システムを復活させていた。まるでターミネーター2に出てきた液状マシーンのようだ。そういえば、組織とは人・モノ・カネで形成されるものであり、器は関係ないのだ。

 この巨大なマシーンの抵抗によって、地方分権も骨抜きに終わっていた。こうして、中央が地方を支配するというニッポンの伝統的な権力構造は生き延びることとなったのだ。結局、ニッポンは何も変われなかったのである。