取締りの警察官vsドライバー 対立の構図
交通取締りの方法に対するドライバーらの根強い不満が存在することは明白だ。それゆえ取締りに不服のあるドライバーは交通安全よりも取締られないための方法を工夫する。対する警察は、交通安全よりもいかに効率よく取締りをして、ドライバーに文句を言わせずに違反を処理するかの方法を追求する。こうして交通取締りの警察官とドライバーの対立が生まれた。しかし取締りの現場レベルでの争い(「納得いかない!」「違反は違反だ !!」)は、不本意な争いに参加させられた前線兵士同士の泥沼の争いでしかないだろう。おそらく交通取締りは、ドライバーに交通安全を考えさせるよりも、取締りの警察官が嫌われることに効果をあげているに違いない。 ベトナム戦争において前線で闘ったアメリカ兵士は、ゲリラに苦しめられ、帰国しても一般市民からの賞賛の声はなかった。 同じことが交通取締り現場の警察官にも起こっているのである。 しかし「違反は違反」で取締りを正当化できる警察に対して、取締りに納得ができないドライバーは、せいぜい取締りの不備をあげつらうことしかできない。また最前線で向かい合った敵同士が憎しみあっても得られるものはない。だから先ず、取締りの根拠となる規制とその運営が、理にかなっているかどうかを明確にする必要があるはずだ。しかし残念ながら、普通のドライバーは、自分自身の不利益のために闘うことはあっても、それを他人の問題(社会の問題)として興味を持つことはほとんどありません。 とはいえ、交通規制とその取締りに合理性が感じられないことが、「納得いかない!」「違反は違反だ !!」といった争いの原因であることは明らかです。そしてさらに、“正義の警察官”のおこなう交通取締りに「正義が感じられない」ことが、“秩序の崩壊”を後押ししているのかもしれません。 |
秩序の崩壊 ‐裏おもての激しい社会
社会の秩序は、マナー・モラル・法規を含む「ルール」の認識の平均値によって決まります。 そして「ルール」の認識度を評価するに道路社会は最適です。 なぜならクルマを運転するときは、歩いているときや自転車に乗っているときには比較になら ない程多くの法規を意識する必要があるからです。また見知らぬ同士が譲り合わねばならない場面も都市部では数分毎に現れます。そして、「道路の秩序維持」という錦の御旗のもと、警察をはじめとした行政機関は、莫大な費用を投じています。
では、実際にニッポンの道路では、「ルール」がどのように認識されているのだろうか。
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警察は「違反は違反」を拠り所にした厳しい取締りを行い、取締りに文句を言わせないシステムも確立しています。しかし厳しく取締ることは、問題の解決になるどころか、取締られない場所や方法での無謀運転や迷惑行為を助長しているのでは」ないでしょうか?
大切なのは「ルール」をドライバーにどうやって認識させるかだろう。「ルール」の一部でしかない「法規」を振りかざして「違反は違反だ!」とやっても、根本的な問題はそのままで、取締りの現場の警察官がキラわれるだけなのだ。 ともかく、取締りの根拠となる「法規」に合理性がなく、ドライバーの行動が反映されていない現実を、冷静に評価する必要があるはずだ。警察が一方的に押さえつけるだけでは、ドライバーの「良識」を押しつぶしてしまうのである。
法規は現実の問題を追いかけるように制定されます。いい替えれば、法規は常に現実に遅れているのです。とっくの昔に交通の実態からかけはなれてしまった法規をふりかざして、「違反は違反」と高圧的な取締りを行うことが、ドライバーの「ルール」の認識を歪め、その結果として警官のいる場所といない場所で運転方法を大きく変えるようになっていったのでしょう。
パブリックスペースとしての道路で「ルール」の認識をゆがめてしまうことが、他人に配慮のできない人々を量産しているのではないでしょうか。こうして「裏おもての激しい社会」が手のつけられなくなるまでに陥ったのかもしれません。
「強い警察」の副作用
警察には犯罪の取締まりと公共の秩序維持という目的があります。
そして、このふたつは同じようでいて同じやり方ではできません。 (ここでは“安全”は犯罪の取締まりと公共の秩序維持の結果として得られるものと考えます。 また特に但書きのない"警察官"は交番のおまわりさんを示します) |
警察力の定義
取締りには強い警察力が必要ですが、秩序維持に強い警察力が必要だとは限りません。それどころか強い警察力には副作用があります。副作用の代表は、秩序の小さな逸脱でさえ、強い警察力を頼ろうとする人々が増加することです。
・些細なトラブルで、すぐに「警察呼ぶぞ!」を発するオジさんたち ・盛り場で乱闘があっても警察が来るまで見物に徹する通行人 ・自分で注意せず、警察に取締らせようとする人々 |
しかし、秩序の小さな逸脱は、自分たち、または周囲の人たちで解決するのが基本です。刑事事件になりそうなときや、 民間人では手が付けられないときに発動するのが警察力だとしてよいでしょう。
つまり、秩序の逸脱>民間人では手がつけられない状態>警察力の発動 となります。
犯罪の傾向
一方、大小含めた秩序の逸脱行為は、様々な場面で噴出しています。 またテレビでは最後まで過ちを認めない大組織の経営者やお役人が頻繁に報道されています。
こどもたちは、これら“オトナ社会の理不尽さ”を敏感に感じ取っているはずです。そして不満足で不安な普通の少年たちは、「バレなければなんでもあり」「カネさえあればなんでもあり」と短絡的に考えるのかもしれません。つまり、社会的ポジション(権力の有無)によって、やっていいこと/悪いこと、許されること/許されないことが変動している、という現実をすなおに理解しているのでしょう。 そして権力として刃物を持ったり、自分よりも弱いものを狙うことによって、自分の体力を有効な権力にして、"悪いこと"をしているかもしれません。もしそうだとすると、「17歳の犯罪」に代表される弱者を狙っての犯行は、崩壊した公共の秩序への悪乗りだということができます。
「強い警察」によって何が得られるか?
しかし、犯罪の取締まりと公共の秩序維持が別々に議論されることはまったくありません。そして警察は犯罪の取締まりと公共の秩序維持を混同してしまうことによって、次のような誤ちを侵しているのだといえます。
警察法に犯罪の取締まりが明文化されているから |
警察法に公共の秩序維持が明文化されているから |
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警察がやらねば犯罪が取締られることはない |
警察がやらねば公共の秩序は維持されない <民主的な秩序安定など存在しない> ????? |
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↓ | ↓ | |
犯罪の取締まりには強い警察であることが必要 (拳銃や警棒に手錠の携帯) |
公共の秩序維持には強い警察であることが必要 (拳銃や警棒に手錠の携帯) ????? |
犯罪の取締りでさえ、その殆どにけん銃の必要はありません。もし凶悪犯を前にしたら、けん銃をもっていたとしても、応援を待つのが定石です。だから、公共の秩序維持に重要な役割を果たす交番のおまわりさんは拳銃はいらないのではないでしょうか。それに、「日本の治安状況では、警官に拳銃を持たせる必要はない」という指摘は、外国の警察関係者からもなされています。
腕力や武器や地位といった権力に従うしかない様々な場面での理不尽な現実には、往々に して権力者に「権力に伴う責任の自覚」が欠如しています。弱いものには配慮するのが「権力者の責任」であるはずですが、逆に権力に任せてやりたい放題が目立つのです。(⇒マシ-ナリズム)
そして警察官の犯罪の多くにも、この「権力に伴う責任」を認識できずに、これを乱用するケースが多数発生しています。
道路の秩序/社会の秩序
公共の秩序維持を強い警察でやろうとすることは、警察官の数が2倍になっても不可能でしょう。 現在の少年犯罪の傾向が、それを裏付けています。もっとわかり易い例は道路社会です、長年のあいだ、警察は「違反は違反」の論理で厳しく取締ることを、事故防止という公共の安全と秩序維持の特効薬としてきました。その強い警察を理念とした取締りの結果、現在の道路社会で秩序がどうなのかを考えれば、どなたにもご理解頂けると思います。
投票&集計結果/ 交番のおまわりさんに拳銃が必要だと思いますか?