power(権力に伴う責任について)

夏目漱石 「私の個人主義」より

  • 自己の個性の発展をし遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない。
  • 自己の所有している権力を使用しようと思うならば、 それに付随する義務というものを心得なければならない。
  • 自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならない。

 「私の個人主義」は、宮内省所轄の官立学校であった学習院大学の生徒たちへの公演内容が綴られたものであり、将来の権力者への提言である。 この本の中では「兄の弟に対する権力」も示しているように、漱石のいう「権力」は国家権力だけではありません。 「権力に伴う責任」について、漱石の論旨をもとに現代社会を風刺してみます。

 ニッポンは総無責任時代の真っ只中にある。政治家は政治責任を果たそうとする努力よりも再選して権力の座に座りつづけることに重きを置いているようだ。相変わらず公共事業は、談合や天下り団体によって合理性を欠いたままで、ときおり不正が発覚しても「みんなやっているのに・・運が悪かった」との態度が垣間みれる。
 公職にあっても脱税ギリギリの節税を当然とし、追徴されても「叔父の名義だったので・・・」などの言い訳で逃れようとする。
 犯罪を捜査する立場の警官はひんぱんに犯罪を犯し、クルマを持つ者は弱い歩行者を配慮することもなく、そのステータスをひけらかそうとする。そして学校では、弱いものに対する集団でのイジメが深刻さを増している。
 物的豊かさを追求しつづけた社会は、お金を稼ぐこと、高い地位を得ることに執着するあまり無用な摩擦を生んだ。そして“中流”を自認する者は、中流から落ちこぼれることを恐れるあまり、奴隷のように働くようになった。さらに個人の利益を守るためには、多少の不正を顧みることもない。その一方、出世や貯蓄をあきらめた人々は、やり場のない社会不信を感じている。

 多少の誇張がされていますが、社会風刺としては決して的はずれではないでしょう 。

 このサイトでは道路をとりまく行政の問題を扱っています。道路は都市機能の根幹であり、公共投資の受け皿としても最大規模だ。またイギリスの道路行政が地方自治を作っていったように、地方分権という大きな課題の前で、必ず議論されなければならない要素でもあるのです。 そして、地方分権と道路をとりまく行政についての書くとなれば、警察を欠かすわけにはいきません。自動車の免許、規制、取締り、そして道路の新設や維持に大きな影響力を持ちながら、「民主的」という言葉がこれほど似合わない組織はありません。都道府県知事の所管にありながら、実質的には恐ろしく中央集権化されており、知事には実質的な権限はありません。その反面、警察活動費用のほとんどは都道府県に頼っています。つまり、警察に対しての都道府県は「権限なき財政負担」といえる状態なのです。


権力行使の現状

 「権力」は英語でPOWER(パワー)と書きます。 パワーが意味するものは国家権力だけではありません。このサイトでは「権力」を、弱い者に対して行使できるPOWER(力)として扱っています。

高級官僚や政治家は私利を得るためにパワーを使い、
警官権力を身にまとった警官は、そのパワーを自覚することもなく個人のノルマを追う。
チカラ自慢のおとこ達は腕力というパワーをひけらかし、
頑丈なクルマはそのパワーに任せてわが道を行く。
おんな達は性のパワーを露骨に表面に出すことを好み、
こどもたちは"こどもの特権"というパワーを利用する。

 権力を持つ者は「権力に伴う責任」を自覚する必要があり、弱いものには配慮をすべきなのである。大切なのは、法律が○○だから○○しないことではなく、法律がどうであれ自分がダメだと思うことはしないことなのではないだろうか。





無責任の構造

不祥事の構造

権力と義務

ニッポンの巨大ロボット

表ウラの激しい社会



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