Public Bureau of Inspection
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このWEBサイトは、自発的な行動が尊重される交通社会を実現するために存在しています

ロード・シェアリングについて

  • Sharing the road(Newyork DMV) - ドライバーズ・マニュアルの項。ちなみに、日本のマニュアル:交通の教則は、全日本交通安全協会が全てのドライバーに売っているが、欧米では無料で配布されている。
  • Sharing road(Chicago DOT) - 自転車は車道を走り、2段階右折をしなくてよい。
  • SHARING ROAD SPACE: DRIVERS AND CYCLISTS AS EQUAL ROAD USERS(スコットランド政府) - ドライバーとサイクリストの道路上での共存に向けての試み
  • Bycycle and Pedestrian(NewYork DOT) - ニューヨーク州法
  • Sharing the Road With Trucks(オンタリオ交通省) - トラックの特性への理解をドライバーに求めることによって、自発的な共存

欧米と日本の道路交通施策を比較して、決定的に違うことがある。それがSHARE(共有)という概念の有無だ。

欧米では、道路はSHARE(共有)するものであり、それぞれの道路ユーザーには、お互いを尊重することによる自発的なアクションが期待されている。これが概ねうまくいっていることは、欧米で信号のない横断歩道を渡ろうとしたときに、誰もが気付くはずだ。

一方、日本では、歩行者・自転車・バイク、クルマのそれぞれが、自分たちの権利を主張し、異なる交通手段を使う者に対する敵意に満ち溢れているのではないだろうか。

もし日本が本当にそんな状態にあるとしたら、何故そうなってしまったのだろう。

タテ割りのニッポン

欧米では自治体が道路交通をコントロールできるのに対し、日本の道路交通は警察が完全に牛耳っていて、市町村に道路交通法上の権限はない。

そして警察は、「悪質な違反は許さない!」とB級アクションさながらの派手な広報を全国一律でひんぱんに行っている。

もともと特別な権力を持っているだけに、ドライバーは強制的なコントロール下に置かれることになる。その反面、警察に意見する窓口は閉ざされており捕まったら現実的な対抗手段はない

有無を言わさぬ高圧的なやり方が、ドライバーのルールに対する意識をねじ曲げてしまっているのではないだろうか。

ルールは守るものなのか?

日本には、「ルールを守ろう!」といった類いのキャッチコピーが氾濫しているが、本当にルールは守るべきものなのだろうか?

<言語的に>

日本では「ルールを守る」としか言わない。

しかし英語では、この場合のという意味において、
“obey”または“observe”、あるいは“follow”で表現される。いずれも「従う」ないし「尊重する」と言う意味だ。

一方、何かをガードする(守る)ときに使われるのは“protect”だ。

以上のとおり、英語的にいえば、ルールはである。

<論理的に>

速度規制は守れない

守るべきまたは達成すべき目的があり、
その手段として、ルールが作られ、それに従う。

事故を減らすために、交通法規に従う

(目的)(手段)

このようにルールは、目的ではなく、手段にすぎないのである。

 

以上の考察から、
「ルールを守る」という表現は、手段を目的化しているといえる。

ルールを守ろう!= お上のルールに黙って従え!

お役人や政治家にとっては、好都合なのだろう。

それから「ルールを守る」という表現には副作用もある。

目的に対して、手段は妥当なのか?―― こう考える機会を失わせてしまうことだ。

これもお役人や政治家にとっては、好都合だろう。

ルールは誰がつくるのか?

国家のルールである法律は、その多くを各お役所がまとめている

そして、この国は地方自治の体裁をとっているものの、現実には中央のお役所が地方自治の多くをコントロールしている。

地方が作る条例はその多くが横並びだし、県議会や市議会の存在意義は疑わしいものだ。

国から地方へと流れる全国一律のお役所仕事は、おそろしく複雑だ。だから、それぞれの筋の専門家でもなければ、ちゃんと理解することはできない。

複雑な税制度、複雑な年金制度、複雑な医療保険制度 ― etc.

僕には、どれひとつまともに理解できない。

こうした地方のお役所仕事のなかで、道路交通行政には、道路管理者と交通管理者(警察)という2種類の管理者がいるため、さらに複雑だ。

崩れ去った信頼を回復する裏技 

ところで、警察や国土交通省などのお役所は、はたして信用されているのだろうか。道路関連では、今も昔も、各地で無数の談合事件が報告されている。

警察においては、1999-2000年に大量発生した不祥事によって、その信頼は完全に崩れ去った。さらに、2004年には、北海道の幹部職員による内部告発によって、裏金の存在が生々しく伝えられ、全国に飛び火した。 その間にも、情けない痴漢や盗撮など、警察官個人の不祥事は絶え間なく続き、もはや、誰も驚かなくなっているかのようだ。

こうした状況によって向けられる『批判』を『期待』へと、180度変えてしまうのが犯罪の発生だ。(警官の犯罪ではない。念のため)

なお、警察は「交通違反は犯罪だ!」と広報している。交通違反が犯罪なら、それはだ。その他のよりも、はるかに簡単に処理できる。それどころか、警察予算を拡大する効果も抜群だ。

そして今日も「交通安全」という抽象的で分かりやすい大儀が繰り返され、ばく大な税金の注がれた道路関係事業が進んでいる。

一方、複雑で分かりにくい行政システムは、市民が意見するどころか、それを理解することさえ拒んでいるかのようだ。

地域差と運転頻度差

全国一律がもたらすギャップ

問題をさらに難しくしているのは、全国一律の道路交通行政がもたらす地域差、それから、サンデードライバーと日常的に運転するドライバーの間に発生する運転頻度差だ。

いつも電車で通勤しているのなら、週末のレジャーに、高速道路を使って移動し、有料の駐車場に駐車してもたいした負担にはならない。それに誰だって、家族や友人と楽しく過ごそうというときに、「なんでこんなに高いんだ!」といった思いで、心を乱されたくないものだ。

一方、日常的に運転する人にとって、日本の交通規制のあまりの厳しさや高速料金の高さは深刻な問題だ。

なのに、駐禁厳罰化後の新聞のコラムでは、「ルールを守る良い機会だ」といった歩行者に口当たりのよい内容ばかりだ。少し踏み込んだとしても、せいぜいサンデードライバーの立場に過ぎない。

行き場のない不満 

このように、日常的にクルマやバイクを運転する人たちの声は、マスメディアに代弁されるすることはなく、また、意見する窓口さえ与えられず、そしてインターネットの掲示板を彷徨うことになるのだろう。