ほとんどの市街道路を駐車禁止としたまま、駐車監視員による厳しい取締りがおこなれるニッポンでは、酒やタバコの自販機が道路際に置かれ、誰もが気軽に酒やタバコを買うことができる。
その反面、酒気帯び運転の基準はきびしく、国家をあげてのネガティブキャンペーンが行われている。また路上喫煙禁止条例下の都市部では、駐車監視員のみならず、喫煙監視員が闊歩している。
さて、禁酒法(飲んでもいいけど、売っちゃダメ)を法制化したアメリカは、 酒に絡む利権が大きな問題となり、後のアメリカ政府は禁酒法を悪法と認めた。
「売ってもいいけど、飲んじゃダメ(吸っちゃダメ)」 かんたんに書けば、これが現在の日本だ。
アメリカ禁酒法と逆なのは、業界優先思考の結果だろう。
ニッポンでは大企業の利益を損ねるような規制は先送りされ、矛先はいつも消費者ばかりに向けられる。まるで絵に描いたようなマッチポンプだ。
2007年3月
東京都新宿区
不法行為には、反社会性が明らかな不法行為と反社会性がお役所次第の不法行為があります。(前者には刑罰が、後者は行政罰が課せられる)
殺人や強盗がどこの国でも不法行為なのに対し――
このように行政罰は、行政機関の規制によって不法行為か否かが決まります。
ちなみに日本では、企業の不法行為が法によって裁かれることは極めてまれだ。これは各省庁が、自分たちの所管する業界への司法介入を嫌うからである。そうして各省庁で発動できる勧告や業務停止命令で幕引きを計ろうとします。
本来なら、殺人や強盗といった刑法上の不法行為だけでなく、行政法上の不法行為も警察が捜査すべきなのだが、警察が対処する行政法上の不法行為は、道路交通法違反ばかりだ。これは道路交通法が完全に警察のコントロール下にあり、警察の活躍を容易にアピールできるからである。もちろん天下り先を増やす口実にもなります。
もし私が警察国家の実現を目論む有力者なら、警察不祥事の火消しで後手にまわるより、犯罪の増加など社会不安をアオって、警察の存在価値をアピールします。そのほうが〝政策(Policy)〟として手っ取り早いからだ。
現実として、昨年から行政機関やマスメディアが一斉に社会不安をアオり、警察の存在価値をアピールしている。
2006年に元警察官僚の上原美都男氏が危機管理監に天下った横浜市では、ゴミ収集車が「子供たちの安全を守るため~」と県警の広報を街中にバラまいています。
ところで、戦前の日本には治安維持法法という法律があった。平たくいうと、国家にとって都合の悪いモノを排除する法律だ。 また治安警察法という法律は、生活者や労働者が団結する機会を奪うものであった。さらに隣組という制度で、住民同士に相互監視をさせた。
戦時下の政策も現在のゴミ政策も、統制による全体主義によって、異質な者を排除しようとする〝作用〟が生まれることに共通する。
さて、東京23区や横浜市では、世界一厳格なゴミの分別が強いられている。これは『エコロジー』を大儀とした国家主導の〝政策(Policy)〟であり、 それがちょっとだけ早く大都市に降りてきただけである。いずれ日本中の都市すべてに、一律の厳しいゴミの分別規制がしかれるはずだ。
専業主婦がいて、すぐ近くに共用のゴミ置き場が整備され、そして広いキッチンがあれば、厳しい分別だって不可能ではないだろう。独身で狭いキッチンしか持たない私は、チャレンジしたものの挫折。はたして都心の狭いワンルームマンションに住む人たちがこの厳しいゴミ分別に対応できるのだろうか。さらに増加する外国人に厳格な分別が理解してもらえるだろうか。すくなくとも劣悪な日本の住環境を勘案した〝政策(Policy)〟とはいえないだろう。
ともあれ、厳格なゴミ分別をやってのけた善良な住民たちは、分別をしない人たちのゴミに目を光らせています。ゴミ分別に限らず、自分の従っているルールに従わない他人に対し、強い不公平感を感じ、場合によっては激しく攻撃するものだ。
なんであいつらはルールを守らないんだ!
〝政策〟の大儀を信じる従順に人ほどヒステリックになる傾向があります。こうして各地でギスギスした摩擦が生じるのだろう。
こうした相互監視型社会への布石は、何年も前から準備されてきた。カギとなったのは、1994年の警察法改正だ。法律学者や弁護士団体が、警察権力の拡大に危機感をあらわにしたのは、安全という名目さえあれば、際限なく警察が介入できるようになっていることだ。
法施行と同時に「防犯課」の看板は「生活安全課」に一斉に架けかえられた。
そして現在、身近な広報をみると、 『安全・安心まちづくり』をはじめ、『安全・安心~』というキャッチコピーが乱発されている。
また各都道府県では、これまた一律の生活安全条例が制定されつつある。
警察は、道路のみならず主導する生活安全条例関連でさまざまなことを規制している、そして街ではいろいろな監視員が闊歩するようになっている。
駐車監視員 |
放置自転車監視員 |
路上喫煙監視員 |
お役所としての警察
無秩序な社会に秩序がもたらされる際には、まず警察が作られるものだ。POLICEの語源がギリシャ語で都市を意味するのは、そんなところからだろう。つまり、警察(POLICE)は基礎的な行政機能(Government)だといえる。
ところが日本の警察は、公安委員会を盾にすることによって、本来、市民の声を聞くべき行政機関としての側面を完全に封じこめている。
さて、中央主導で全国一律の〝政策(Policy)〟を貫いてきた日本であるが、これまで先送りしてきた公務員改革と地方分権の議論を避けられなくなっている。これは既得権益をおびやかすもので、霞ヶ関のお役人にとって由々しき問題だ。
昨今、「安全・安心な~」というお役所の用意したスローガンが乱発されているのは、お役所改革の必要性から大衆の意識を遠ざけるための〝政策(Policy)〟といってよいだろう。
失墜しつつあるお役所が権威と信頼を取りもどすためには、社会不安をアオり、抽象的な大儀をアピールするのが手っ取り早いのである。
お役所のスローガンを受け売りする人々と同様に、残念なのは、法律が国会決まっていると信じて疑わない人々の存在だ。彼らは、「法律で決まったこと」を聖域化してしまっている。
しかし、永く封印された憲法改正でさえ、議論できる時代になった。「法律で決まったこと」で思考停止をさせられる理由はない。
それに現実として、ほとんどの法律をそれぞれのお役所がまとめ、国会はそれを追認する場所に成り下がっている。ニッポンが「もっとも成功した社会主義国家」といわれるのは、民主的コントロールが機能していないからだ。
○×委員会に責任転嫁し、○△協会で利権を吸い上げるという、お役所(Government)の基本的なシステムに問題があるのに、それら根源的な問題は先送りされつづけるばかりだ。そしてお役所の権威を取り戻すスローガンばかりが乱発されている。
さて、村八分を恐れ、みなと同じく行動することを好む日本人は、国を挙げた○×運動のスローガンに対しても極めて従順だ。かつて、チェンバレンという学者は、日本人の特徴として「付和雷同を常とする集団行動癖」を挙げている。彼のように、それまで純朴で平和主義的な日本人が、『一億総特攻』に突き進んだことに興味を抱く外国人は少なくない。そこに政策(Policy)の影響があったことを疑う余地はありません。
非国民といわれることを恐れ、多少の疑問は封殺された。国家をあげて、戦争への協力と相手国への敵愾心が扇動され、治安維持法や治安警察法で、異分子を排除するための法的根拠もつくられた。そうして国家に扇動されたナショナリズムは、歯止めを失っていった。
「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵」「滅私奉公」
こうしたスローガンによって、まんまと全体主義に乗せられたのである。
「安全・安心~」という現代のスローガンが功を奏するかどうかはさておき、とにかく今の政策(Policy)は戦時中のそれとよく似ている。