[2764] 開き直りと泣き寝入りの構造
投稿者名: Initial_P (ホームページ)
投稿日時: 2001年8月6日 02時41分
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■敷居の高い裁判/“開き直り”の氾濫 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 米国では訴訟を起こすことに抵抗もなく、訴訟を起こされることに対しての危 機感を組織や個人が持っています。そうしてバランスが保たれているのが米国 です。
一方、日本では民事訴訟をすることは市民権を得ているとはいえません。ます 裁判所の権威主義が市民にとって裁判が身近なものになることを拒絶していま す。背景には弁護士試験が難関であるが故に法曹の不足が決定的になっている にも関わらず、既得権者(難関試験の合格者達)が法曹を増やすことに反論し ていることもその一因です。 ※ロースクールの設立は本格化しており変革の兆しは見えてきたようですが…。 次に弁護士の不透明感(コスト、専門、技量、人柄、…etc.)が裁判を遠くし ます。さらに時間(裁判所のお役所タイムテーブルによる受付、結審までの時 間)、そして最大のネックは裁判を「大それたこと」と考える世論です。被害 を受けて提訴したにも関わらず世論は「そんなに事を荒立てなくても…」に始 まり、「カネ目当てだろ?」「裁判までするなんてしつこいヤツだ」…etc.
「どうせ裁判なんかできっこないだろ」 利己的な人々や組織はタカをくくった対応をしながら、場合によっては悪ノリ していきます。そしてわが身のかわいさに都合の悪いことを隠そうとする傾向 は取り返しのつかない状況に達しているのではないでしょうか?テレビでは頻 繁にシラを切り通す大企業のトップやお役人たちが報道されています。それに 対して、善良な一般市民にできる抵抗はたか がしれています。こうして真面目に働くのがアホらしくなった人々のなかには、 (悪意を持ってやりながら)「知らなかった」「証拠はあるのか?」「文句が あるなら裁判しろ!」を逃げ口上とする人たちは暴走し始めています。
私がこの掲示板に来てすぐに「閲覧者に考えて欲しいこと」だとして次の3点 を示しました。そして私は何度も何度もこれを示してきました。
1.保身のために知らぬ存ぜぬで済まそうとする弱さは誰にでもある 2.知らぬ存ぜぬで泣き寝入りさせられない為には大きな労力を必要とする。 3.相手が権力者であればあるほど2.の苦労は大きい
3はともかく、“大きな労力”とは相手のウソを覆すだけの証拠を積み上げる しんどい作業です。そして“大きな労力”をかけたとしても「そこまでやらな くても…」という『他人の不幸は他人事』的ご意見や、議論や紛争の相手から は「ストーカーだ」といわれるのがオチ…それが現実なのかもしれません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■“痛み分け”の問題点 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 他人(個人またはさまざまな団体)との円滑な関係が損なわれたときにどちら かの一方でも歩み寄ろうとしなければそれは紛争となります。紛争を解決する 手段としては第三者(人または裁判所)の仲介がありますが、紛争を中立的な 立場で“公正”に解決できるひとはほとんどいません。「まあまあまあ」「ケ ンカ両成敗だ」「あんたも悪い。相手も悪い」こんな程度が関の山です。一方 裁判所はというと、現在の日本では様々な要因によって裁判所の仲介(司法 サービスの利用)は決して一般的ではありません。
こうして紛争は“痛み分け”によって終わることがほとんどになります。この 状況の問題点は“痛み分け”のバランスが双方の過失責任に応じて分配される ことが決して多くないところにあります。相手が個人でも企業でも「両成敗」 つまり自分の受けた損害は自分で負担するケースに落ち着くのがほとんどです。 これを「自己責任」に基づく公正な解決だという主張する人は少なくありませ んがこれは間違いです。問題の解決は、過失に応じた負担をさせなければ“公 正”ではないのです。
一方的に損害を受けても「両成敗」という不公正な解決が主流で、しかも紛争 を公正に解決するための裁判という手段が決して一般的ではないことが、「証 拠はあんのかよ!」「文句があるなら裁判しろ!」「もう謝っただろ」といっ た開きなおりを助長しています。 明確に責任を追及することに対し「ギスギスした争いはイヤ」だと思う方々は 少なくないでしょう。しかしこうした “事勿れ主義”
が他人の問題には無関 心な「総無責任時代」を招いた要因にもなっています。 |
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